地下の坑道内を行き交う数百人の人たち。坑道内に露店が立ち並び、子供たちの歓声が響きわたる。客を呼び込む露店のかけ声、唐揚げを揚げるジュージューという音も聞こえてくる――。

 ここは、岐阜県可児市の天ヶ峯おちょぼ稲荷神社。毎年7月に夏祭りが行われていたが、その場所が非常に特殊だった。神社は小高い丘を登った山頂付近にあり、その山の下には戦時中に地下軍需工場を造るために掘られた無数の坑道があった。夏祭りは、この坑道内で行われていたのだ。その名も“洞窟夏祭り”。日本で唯一の、地下坑道内で行われる地域のお祭りだった。(全2回の1回目/後編に続く

坑道内に広がっていた“衝撃的な光景”

 私がこの洞窟夏祭りを知ったのは、2010年頃のこと。いつか行ってみたいと考えていたが、年に1度のお祭りで、ごく限られた近隣地域以外には積極的に広報されておらず、日程を事前に知ることも困難だった。2016年の7月、用事があったため近くを通りがかったところ、偶然洞窟夏祭りが行われていたため、ようやく行くことができたのだった。

 消防団の方に誘導されて車を停めて、かなり歩いて会場に向かった。地域のお祭りではあるものの、多くの人が訪れるようで、堤防や田んぼのあぜ道にズラリと車が並んでいる。会場となる洞窟の入り口は、小中学生や親子連れでごった返していた。普段は人通りさえ少ない場所なので、正直ビックリした。

 滞留している多くの人たちは鳥居をくぐり、その先の坑口に吸い込まれていく。浴衣を着た親子連れやカップルたちが、身をかがめて洞窟内に次々と吸い込まれてゆく光景は、なんともシュールだ。坑道内は気温が低く、外は暑かったのに一気に肌寒くなった。

 私も続いて洞窟内に入ると、数十メートル先で天井が高くなり、広い坑道が縦横に伸びていた。そこには、さらに衝撃的な光景が広がっていた。洞窟内に明かりが灯り、うどんや唐揚げ、輪投げ、サイコロゲームといった、普通の夏祭りと同じ露店が立ち並んでいたのだ。それに興じる子供たち。ここが地下坑道ということを除けば、どこにでもある普通のお祭りだ。坑道内なのにガス火でうどんを茹でたり唐揚げを揚げたり。それもまた、衝撃的だった。

複数の坑道が張り巡らされた空間

 露店エリアは1本の坑道だけではなく、縦横の複数の坑道にまたがっている。露店を巡っているうちに、自分がどちらに向かっているのか方向が分からなくなるほどだ。坑道内には七夕祭りの装飾が施され、お祭り気分を盛り上げる。奥のほうには鳥居もあって、お参りしたり、おみくじをひくこともできる。

 地域の奥様方がフライドポテトフランクフルトを売っていたり、子供会だろうか、若い女の子が光るブレスレットを売っていたりする。

“洞窟名物うどん”が大人気のワケ

 坑道内の衝撃的すぎる光景に見とれて長居していると、徐々に寒くなってきた。坑内の温度は20℃以下なので、真夏の恰好では寒かったのだ。たまらず、300円でうどんを買った。“洞窟名物うどん”のポップが目を引く。温かいうどんは大人気だった。

 出入り口となる坑道は狭いため、一方通行となっていた。入り口とは別の坑道から、同じように身をかがめて外に出ると、一気に生ぬるい空気に身を包まれた。

 この洞窟夏祭り1978年から毎年行われてきたが、残念なことに私が訪れた2016年が最後の開催となってしまった。洞窟内でお店のお母さんに聞いた話では、夏祭りを主催しているのは青年部だが、みな70歳を超えてもう無理、とのこと。39年間続いた洞窟夏祭りだったが、高齢化には勝てなかった。非常に残念だが、これは仕方がないと思わざるを得なかった。

あの洞窟は今どうなっているのか?

 あれから月日が流れ、あの洞窟はどうなっているのか――。ずっと気になっていた私は、数年前から幾度となく洞窟を訪れるようになった。しかし、入口と出口だった坑口はしっかりと塞がれ、施錠されているばかりではなく溶接されていた。他にも出入り口はあるが、やはりいずれも施錠されるなどしており、内部の様子をうかがい知ることはできなかった。

 どうしても諦めきれなかった私は、洞窟の管理者を探すべく、市役所や自治会、地域の地区センターで話を聞いたが、いずれも管理しておらず、また誰が管理しているのか分からないという回答だった。

 藁にもすがる思いで、以前、豪雨災害の行方不明者の手がかりを探す活動(過去記事参照)に参加し、お世話になった地元可児市の市議会議員、山根一男さんを頼ることにした。そして、同じく可児市議の林則夫さんに会わせていただいた。

 林さんは、この地区のことを最も知り尽くしていると言われていて、なにより洞窟夏祭りの考案者だとの声もあった。実際、私は市役所からも自治会からも「林さんに聞いて下さい」と言われたのだ。

 そこで林さんにお聞きしたが、やはり現在の管理者は分からないということだった。林さんと山根さんは、他の市議や地元の方、洞窟夏祭りを主催していた可児市商工会青年部などにも話を聞いてくれた。しかし、結局、管理者を見つけることはできず、現在は管理者がいないのではないかとの結論に至った。

6年ぶりに内部に潜入!

 そして、関係者に確認を取ったうえで、特別に内部を見せてもらえることになった。もちろん、柵を傷つけたりせず、原状を維持して入る方法を検討した。誰にも迷惑をかけないよう、自分自身の安全にも最大限注意を払った。

 ウエーダーにヘルメットという格好で6年ぶりに入坑すると、そこには驚くほど当時と変わらない光景が広がっていた。

 洞窟に吊り下げられた七夕飾り、飲食用のテーブル、そして鳥居まで、当時と同じ姿のまま、そこにあった。洞窟内にあったため風雨に晒されず、通年で気温も一定だったためか、七夕飾りは全く色褪せていなかった。なんなら、すぐにでも洞窟夏祭りを再開できそうな雰囲気だ。

 そういえば、当時から夏祭りであって七夕祭りではないのに、なぜ七夕飾りが施されているのか気になっていた。飾りの中には“七夕祭り”と書かれているものもあって、洞窟夏祭りと一致しない。この疑問を林さんに投げかけたところ、意外な答えが返ってきた。

 岐阜県と隣接する愛知県一宮市では、例年、盛大に七夕祭りが行われている。この愛知県一宮市の七夕祭りで要らなくなったお飾りをもらってきたのだという。お下がりだけど、無いよりもあったほうが気持ちも盛り上がるだろう、という理由だった。

時が止まっているような景色

 喧騒がない静まり返った坑内を歩いていると、“わなげ200円”と書かれた当時のポップさえも残っていた。近くには衣装ケースが置かれ、輪投げの輪っかが整然と収められていた。次の年にはまた開催されるような状態で時が止まっているみたいで、出入口が溶接までされていることとのギャップを感じた。

 鳥居の周辺からは、紅白の幕や賽銭箱が撤去されていた。そして、意外な事実を知ることとなった。鳥居のすぐ先は水没していたのだ。当時、鳥居の奥は紅白の幕で隠されていたが、あれは水没していたためだと知ることができた。水没した坑道の先に鳥居があるという、あり得ない不思議シチュエーションだ。

 念願だった洞窟夏祭り会場の再訪が叶ったが、確認しておきたいことが2つあった。1つは、そもそもなぜ坑道内で夏祭りを行おうと思ったのかということだ。山の上にある神社の境内は非常に手狭で、洞窟前の広場も決して広くない。そのため、空間の確保が理由かと思っていたが、林さんの答えは意外なものだった。「そんなの涼しいからですよ。だって、外は暑いじゃないですか」

軍需工場跡という戦争遺産で

 そしてもう1つ、軍需工場跡という戦争遺産で夏祭りを開催することに抵抗がなかったのかということだ。実際に稼働する前に終戦を迎えているとはいえ、一般的には負の遺産と思われがちだ。今年87歳となる林さんは、坑道を掘っていた頃、小学生だったという。

「当時は75人学級でしたが、大半が外国人労働者の子供でした。強制的に連れてこられたとか、少なくともここはそんなんじゃなかったし、大人も子供もみんな家族的な付き合いで仲良く暮らしてましたよ」

 今でも、当時の旧友たちと再会したいと願っているという。

 こうした温かい心によって培われていた地域の土壌があったからこそ、ここで日本唯一の洞窟夏祭りが行われていたのだろうと思った。

 そして、難しいとは分かっているが、いつの日か、洞窟夏祭りが復活してほしいと願っている。

 一方、この坑道の歴史を調べていくと、ある意外な資料にたどり着いた。なんと、坑道は鎌倉時代には存在していて、この中で「鎌倉幕府倒幕の密議」が行われていたというのだ。大河ドラマ鎌倉殿の13人」にも通じそうな話は、果たして本当なのか。後編では、思わぬ形で出会った“歴史ミステリー”を紐解いてみる。

撮影=鹿取茂雄

「ここで倒幕の密議が…」神社の地下に眠る《ナゾの洞窟》の正体とは? 700年前の“鎌倉ミステリー”を追ってみた へ続く

(鹿取 茂雄)

地下坑道内で行われていた洞窟夏祭り(2016年撮影)


(出典 news.nicovideo.jp)

こんなお祭りあったんですね。 なくなって残念

<このニュースへのネットの反応>